◆香川県の人◆
幼少期から大学時代までを振り返ってもらったら、意外にもさほど何も考えていなかったという(笑)、日本の一般的な若者っぽい一面を垣間見た前回。今回は、大学卒業後を振り返ってもらいます。
前一回我們意外的發現,橫山先生從幼年到大學的生活,和一般的日本年輕人一樣,對於自己的未來沒什麼考慮。這回,我們請他回想看看,大學畢業後的生涯歷程。
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山:さて、では社会人になってからをお聞きしますが、セシールではどんな仕事をやっていたのですか?
那接下來想請教您開始工作後的事。在塞希爾工作時,您感覺怎麼樣呢?
横:生産管理の部署に配属になって、在庫管理と発注業務をひたすらやっていました。当時、17時半には退社しろというルールだったので、朝8時45分から17時頃までルーチンの発注業務をやって、17時10分頃には会社を出て、自転車で家まで10分ぐらいだったから、17時半には家に着いているという生活の繰り返しでした。
我當時被分配到生產管理部門,從早到晚都在處理在庫管理和訂發貨的業務。那個時候,公司規定每天下午五點半下班。我早上八點四十五分到下午五點都要固定處理訂發貨的業務,五點十分離開公司,騎十多分鐘的自行車回家,大約五點半到家。就這樣日復一日。
山:遅くまで働いている多くのサラリーマンからしたら、夢のような生活じゃないですか。
對於那些每天都要工作到很晚的上班族來說,您這樣的生活可說是夢寐以求呢!
横:今はルーチン業務の大切さも分かるようになりましたが、当時は退屈で仕方なくて、、
是這樣沒錯啦!每天反覆過一樣的生活,是非常重要沒錯,但當時真的覺得每天都非常無聊。
山:なるほど。横山さんは3年弱でセシールを辞めていますが、仕事が合わなかったというのが転職の理由ですか。
原來如此。您在塞希爾只做了三年多而已,工作跟您不合是當時換工作的理由嗎?
横:いえ、それは直接的な原因じゃありません。当時のセシールは全社で3,800人ほど社員がいて、私の部署は新卒のペーペーから偉い人までが、役職ごとに固まって1つのフロアに集められていました。
で、年功序列なので「5年後にはあの席のあたりに移って、10年後にはあのあたりに行って、、、」というのがモロに見えるわけですよ。それを考えた時に、なんとなく自分の将来が見えてしまったような気がしたというのが大きかったです。それがあって、1年目の後半ぐらいからは転職することを考えていました。
不是,這不是最主要的原因。當時的塞希爾有3,800多名員工,我的部門從剛畢業的菜鳥到老鳥都有,案職務分,被集中到同一樓層。
因為年功序列的關係,「五年後可移動到這個職位,十年後可去那個部門...」我可以非常清楚地看到這樣的教條。當想到這,總覺得不想讓自己的未來就只有這樣而已。這才是我辭職的最大原因。
山:「新卒者の35%が3年以内に会社を辞める」というのが、昨今の日本企業では言われますが、「最初に入った会社を勤め上げる」というのが今よりももっと一般的だった時代にあって、よく辞めましたね。ある意味、トレンドを先取りしてますね(笑)。辞めると決めてから約1年間はどう過ごしていたのですか?
昨天的報導才說日本企業,「新員工有35%在3年內辭職」,在您那個年代「至始至終在同一家公司上班」是非常稀鬆平常的,您還真有勇氣把工作給辭了呢!在某種意義上來說,可說是洞察先機呢!那工作辭掉的第一年,您是怎麼過的?
横:会社が終わったあと、簿記の学校に行ったり、パソコンの学校に行ってました。
辭掉工作後,先是去學了記帳,後來還去學了電腦。
山:で、セシールを辞めてからは、どこかの企業に転職したんでしたっけ?
塞希爾的工作辭了之後,有到別的公司工作嗎?
横:いえ。2年9か月で辞めて、実家の家業を手伝うことにしました。
沒有。兩年九個月都沒有新工作,只回老家幫忙家業而已。
山:あれ?家業みたいな自営の中小企業だけは勘弁、、みたいなことを言ってたかと?
唉?當時有「像家裡那樣自己經營的中小企業,饒了我吧!」的這種感覺嗎?
横:学生時代はそう思ってたんですが、セシール時代、取引先の中小企業の経営者の方とご一緒する機会が多く、その方々の多くが必死なんだけどイキイキと働いていたというのが大きいです。こういう人たちみたいになりたいというモチベーションが、その頃に醸成された気がします。
一開始找工作時的確有這種感覺,但在塞希爾工作的期間,常與中小企業的老闆一起工作,那些人拚此拚活地認真工作的身影,改變了我。就這樣,激發了「我也想跟他們一樣」的強烈慾望。
山:なるほど。それで実家に就職したということですか。お父さんは長男が戻ってきてくれたから喜んだんじゃないですか?
原來如此。這樣的話為什麼不乾脆回老家工作呢?您父親應該會很高興長男回來的,不是嗎?
横:全然。先は無いからやめとけと言われていましたし。
才不呢!還被他說,回來沒前途,別回來!
山:親の反対を押し切って実家に入って(1997年)、それから何をやっていたんですか。
不顧父母反對回老家(1997年),之後您都在做什麼?
横:1年間は経理だけをやりました。そうしたら会社の状況がよく分かり、父親が言うように、このままでは先が無いこともよく分かりました(笑)。当時は百貨店からの直しなどの依頼に対応するだけの下請け会社でしたが、スーツの無店舗販売からスタートし、そうこうしているうちにお店が必要と考え、店舗でオーダーメイドのスーツを売るようになりました(1999年)。
当時はオーダーメイドをウリにしたビジネススーツメインでやっていて、たまにタキシードを作ってくれという依頼がきたらタキシードを作ってたという感じでした。
でも、その頃は香川の青年会議所(JC)に入ったばかりの時期で、どちらかというとそっちの方が楽しくって、仕事は来たものをさばく程度でJCの活動にすっかりはまっていました。そうこうしているうちに、ASPACの話があったりしたので、JCにどっぷりっていう感じでしたね。
在這一年,我經手公司財務管理的工作。這一做才知道我家公司的狀況並不樂觀,哈哈哈!就像父親所說的,再這樣下去還真沒前途。當時我們只是一間接百貨公司西裝修改訂單的下游公司,如果想接西裝訂做的訂單的話,就必須從原先的無店鋪的對內販賣,改成有實體店鋪的對外販賣才行。就這樣,我們開了店,我們在店裡頭做起訂做西裝的生意。(1999年)
當時我們主要是做販賣用的西裝,但偶爾也會接到燕尾服的訂單。
但是,當時我才剛加入香川青年議會(JC),再怎麼說還是那邊的工作比較輕鬆。當有訂單來時,我只是稍微處理一下而已,幾乎可說是完全沉浸在青年會議所(JC)的世界裡。再說當時剛好又有ASPAC的活動,有那種一下就陷進去的感覺。
山:それがどう、今のビジネスに結びついていくのでしょう。
這樣的話,是怎麼發展到現在的事業呢?
横:ちらほらとタキシードの依頼が舞い込んでいたというのがあり、2005年頃からブライダルタキシードも商品に加えて、初めてブライダル産業フェアに出展しました。幾つかのパターンに則ってブライダルタキシードを簡単にオーダーできる仕組みを考え、あとはブライダルタキシードをスーツにリメイクできるようなシステムを作ったところ好評をいただき、取引先が全国に急激に増えました。
それを機に2008年に東京に拠点を構えて南青山にショールーム兼ショップを出しました。
零零星星接了一些燕尾服的訂單,大約是從2005年開始,才把做製作燕尾服加到我們的服務範圍內,就這樣,第一次在結婚業界的博覽會上展出。我想到了可以簡單訂做的幾款基本款,再加上把燕尾服改成一般西裝的服務。沒想到大受好評,來自全國上下的訂單不斷湧進。
乘著這個機會,2008年在東京南青山設了個展示店兼分店的據點。
山:そして順調に推移して、今に至るっていう感じで?
然後就這樣,順利地發展成今天這樣了嗎?
横:いえ、最初の5年間は特に光明が見えていたというワケでななく、ただがむしゃらにやっていました。そうこうしているうちに、最大の危機を迎えました。その時は、東京からの撤退も考えました。
沒有,頭五年沒什麼看頭,只是草率地做做而已。做著做著,就面臨了前所未有的大危機。那時,我甚至考慮是不是要撤出東京。
山:といますのは?
怎麼了?
横:2011年の東日本大震災で、日本全体が結婚式やパーティの自粛モードに包まれたので、一気に仕事が減りました。さすがにこの時は本当に危なかったです。
2011年的東日本大地震,日本全國上下的婚禮和派對都充滿著嚴肅的氣氛,我們的訂單也頓時銳減。回想當時,真是太驚險了。
(次回に続く)
(下回待續)
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